「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。」
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
マタイの福音書 23章8節 Matthew 23:8
バイブルスタディで、この聖句を読んだときは、びっくりしました。そんなこと聖書に書いてあったんだ。「あなたがたの教師はただひとりしかいない」=神(父)、神様だけど、人間の姿で地上にこられたイエス、聖霊 (三位一体)の前ではみな兄弟、ということ・・・と感じました。神様の前には皆子供なので、先生と権威とつながるような呼び名は必要ないのでは、誠実、謙虚に生きよう、と言われてるような気がしました。人が人に対して、絶対的な権威を振るう、コントロールするようなことは絶対にあってはダメ、というメッセージなのではと思いました。
この「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません」の聖句は【使徒の働き20章】をニュージーランドに住む日本人の仲間とバイブルスタディをしたときに関連として話に出てきたのですが、使徒の働き20章は、パウロの最後の伝道のお話です。パウロはクリスチャンを迫害する立場の人でしたが、イエスによって、目から鱗が落ち(使徒の働き9章)、目が開かれました。天に召されるまで、最後まで、イエスの教えに忠実に、謙虚に伝道活動をした12使徒のひとりです。パウロは亡くなるまでに、むち打ち刑があわせて8回、石で打たれたことが一度、船の難破の経験が3度と、迫害を受けたことが記録されていて(第二コリント11章24-26)びっくりしますが、そんなに迫害を受けながらも、最後まで彼の使命を全うします。パウロはこの日集まった、教会の長老や信徒たちに最後のメッセージを伝えます。
皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。
使徒の働き 20章25節 Act20:25
このあと、自分もイエスと同じく、命を失うだろう、と確信がありながらも、エルサレムに向かいます。そしてパウロもイエスと同じく殉教の死を迎えます。
死を目前としたパウロのメッセージ
AC30年ごろ、約2000年前に亡くなったパウロのメッセージ。でも、現在にもまったく同じことがことが起こっているような気がしました。
Act20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
Act20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
Act20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
使徒の働き20章 29-31節
いろんな情報や思想があふれ、昔より簡単に情報が手にはいり、また、発信できる現在はまさに、いろんな狼があふれているような気がします。30節のように、クリスチャンであっても、だんだん、聖書から離れた行動になってしまったり、とはよくある話な気がします。だから、31節に、聖書の言葉を軸に「目をさまして」いる生活を心がけなさい、とこの聖句が教えてくれているような気がしました。ついつい、いろんなことに、気を取られたり、自分勝手な思いを優先したりして、欲張ったりして、目が閉じてしまいやすいのが人間だと思ってしまうのです。
どう生きるからはあなた次第
32節ではパウロはまとめの言葉を語ります。
Act20:32いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
パウロはみことば「聖書」が、生きる指針になります、迷ったとき、は聖書に立ち返るように、そうすれが、三位一体の神さまが導いてくれます、と言われてるような気がしました。
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